音楽は人を救うらしい。

曲に、アーティストに救われた、彼らはヒーローなんだというツイートをよく目にする。そういう話をよく耳にする。誰かの琴線にふれてその心を救うというのはとても素晴らしく、すごいことで音楽というものは、ひいては芸術というものはものすごい力を持っている。

 

思うけれどもわたしの前にヒーローは現れる気配はなかった。わたしにとって音楽は楽しむものであり、元気づけてくれるものであり、テンションをあげるものであるからだ。大好きなアーティストが響かせてくれる音楽から感じること。そこには救いという重たい言葉は入ってこない。ポジティブなメッセージを受け取って次のエネルギーにする。もちろん悲しみに寄り添ってくれる曲もあるけど、それは支えや共感であり、シアワセであり励まし。わたしにとっての音楽の役割はいつだってそうだった。

 

ただ、わたしはとうとうヒーローに出会ってしまった。

今日はその話をしたい。

 

きっかけはYouTubeの広告だった。動画の前に流れるあの広告。スキップもせずに最後まで聴いてしまって「あ。」と思った。流れていた音楽に一目ぼれしてしまったようだ。でも曲に一目ぼれすることは結構よくあることで、そこからどれくらいハマるのかはいつも未知数。

 

猿上がりシティーポップ/秋山黄色

 

その曲はこういう曲名で、作っているのは秋山黄色というアーティストだと知る。

 

出身が宇都宮市で、わたしも宇都宮市に住んでいたから親近感がわいた。

YouTubeにあがっているMVは全部ドストライクに好みだった。

Spotifyでアルバムを聴いて、Twitterもフォローして、ツイキャスも追いかけた。

今回の一目ぼれは単なる一目ぼれには終わらなかった。

 

わたしが1番最初にハマった曲はとうこうのはて。その次にやさぐれカイドー。音が好きで、声が好きで。わたしのこの抱えている思いが歌になってる気もするから好きで。そうやってアルバムを聴いているうちに新しい曲が配信された。

 

クラッカーシャドー。この曲を聴いた時、この人の作る音楽が完全に好きだと確信した。おぼろげながら分かっていたけど、わたしにはこの曲が決定打だった。

 

どう表現していけばいいのか分からないけれど、黄色さんの曲に惹かれた理由の根本だから、書いておく。

 

絶望と孤独。体の奥底に潜むこいつらはまことに厄介で、油断をするとすぐに出てくる。もうだめだって思ったり、生きている意味を見失ったり、どうしてみんなそんな平気な顔して生きてるの?とふいに闇におちてしまう。頭ではわかってる。生きることは希望であるし、進み行く道は明るいし、わたしは大丈夫だってことは。でもそんな理性や感性をぶっ飛ばすほど強い魔物がいるんだ。

 

黄色さんの曲は、わたしの抱えてるやつらをこの人も抱えているのかもしれない。この人は分かってくれているのかもしれない、と思うようなものだった。

 

オフィシャルサイトより、クラッカーシャドーへのコメント。

~本人コメント~

「全ての事が虚しくて、薄暗い部屋でグッタリしていても生きているならば「生きない」事は出来ず、光には必ず影があるように、誕生日があれば命日もあります。
ケーキに刺さる蝋燭だけ勝手に増えていく時間の中で、こんな毎日はいつか変わるのだろうか、もう手遅れなのだろうかと揺らいでいる心の歌です。」(https://www.akiyamakiro.com/blog/6-19-wed)

 

これを読みながら配信されたクラッカーシャドーを聴いて、ぽろぽろ泣いた覚えがある。きっとこの人も絶望したことあるんだろうな、ふっかい孤独を感じたことがあるんだろうなあって。いや絶望したことがある人は大勢いるとは思うんだけれども、波長があったというか、分かってもらえたと思った。なんの根拠もないのだけれど、ああ、この人の音楽はわたしのこの気持ち分かってくれているって。そしてたしかに絶望を歌っているはずなのに、彼の音楽は希望だった。

 

黄色さんがどんな思いで作って歌ってるのかなんて片鱗しか分からない。そしてわたしの受け止め方はもしかしたら大間違いなのかもしれない。でも、わたしはこの黄色さんがつくる曲に確かに救われた。

 

秋山黄色とFINLANDSとのツーマンライブに行ったとき。だだっ、だだっと始まる猿上がりシティーポップのイントロ。そのあとすぐにわたしの顔は勝手に歪んで涙がつーっと落ちていった。そして結局ライブ中涙は何度も頬を伝っていった。

 

そういえば、以前フォーリミのライブに行ったとき、隣にいた女の子が何度も何度も頬をぬぐっていた。きっと長いことファンなんだろうなと思いながら、その時は「本当にこの子はフォーリミが好きなんだ」までしか思わなかった。やっと、彼女の気持ちも分かった。溢れる涙は止められなくて、たぶんあれはフォーリミが救いでありヒーローだったからなんだろう。本当に好きという以上の感情だったんだ。

 

ツーマンが終わった後はわたしの中の感情が蠢きすぎてどうしようもなかった。興奮が身体中をかけめぐっていて、おかしくなりそうだった。感動して動揺して何かを受けとめすぎて、言葉には出来なかった。「なんともすごいものを見てしまった」感がずしんと広がっていた。足早に駅に向かっていかないと、道端にすわりこんで泣き出しちゃいそうなくらいに。

 

わたしのヒーローは全身全霊で音楽を奏でていて、なにかを振り絞るように歌っていた。ライブならではの熱量が飛んできて、いつもイヤホンで聴いている音が目の前で身体全体に響いていたあの空間は、とても希望にあふれていた。

 

 それからしばらくライブのことを思い出すたびに涙があふれて止まらなくなってしまった。ただうれしくて幸せで感激で、それが言葉にならなくて涙で昇華していたのだと思う。それを整理するために、こうやって一連の思いを書いてみた。結論は明白だった。わたしは秋山黄色の作る曲に救われて、彼はわたしにとってのヒーローだと。

 

余談ではあるけども、彼の音楽に出会ってから、わたしの中の絶望と孤独たちは、なくなったかのようにふるまっている。この文章を書きながら、あれ?最近出てきてないなと気づいた。わたしもそいつがいることを忘れかけてきていたらしい。出会った音楽にすべて預けて、あいつはどこかに消えたのだろうか。それならそれでいい。それが秋山黄色というアーティストに出会って、救いを受けた結果なのだろう。

 

黄色さんはこれからどんどん大きなところにいってしまうことは確かだ。そしてファンとしては早くもっと大きいところで演ってほしい。ただどれだけ遠くにいっても一切関係なく、その全身全霊の音を受けとめにいく。力にさせてほしい。

 

以上がわたしのなかで蠢く感情の根本だった。救いとかかくと大げさなように思えるけれど、大げさじゃないんだ、きっと。そして芸術をやっている人は心から尊敬する。だってみんな誰かのヒーローだから。

 

本日も読んでくださりありがとうございました。