家に置かれたタッパーを見て思い出したこと。

わたしが朝泣きながら支度をして仕事に行っていたとき。

それくらい仕事が辛かったとき。

電車に乗るときも心臓がバクバクして、どこかで倒れることを願っていたあの時。

 

大学時代の友人が、遊びに来てうちに泊まってくれたことがある。それだけでも十分にうれしいことなのだけど、彼女は少し大きめのタッパーにちいさなおにぎりをいっぱいにつめて持ってきてくれたのだ。

 

ご飯はしっかり食べなきゃだめだよ。そういうようなことを言われた気がする。

 

渡されたときに1つ食べてみた。海苔も巻いてないシンプルな塩むすびだったのだが、ずっしりとお腹に沁みわたるおにぎりだった。

 

美味しかった。

 

次の日同じ電車に乗って、もちろんわたしは職場の最寄りの駅で降りた。わたしたちは頑張ってね、ありがとう、またね。と挨拶を交わして別れた。少しの時間だったけど、頑張ってもいいかな、そう思えた。

 

仕事から帰っておにぎりを食べた。美味しくて8個くらい残っていたおにぎりを一気に食べた。泣きながら食べた。

 

返すのは今度でいいよ、使っていいよ、と渡されたタッパーをわたしは2年近くも使っている。

 

彼女は今大阪で料理人としての道を歩いている。しょっちゅう会えるわけでもないし、連絡をとっているわけではないのだけれども、彼女はわたしのことを分かってくれるし辛い時に支えてくれた1人としてこれからもずっと仲良くしていくのだろうと思ってる。

 

タッパーを見てこのことを久しぶりに思い出した。

 

あの時のありがとうの気持ちは忘れられない。あの時なにがあってしんどかったか、なんて思い出したくもないから記憶の底に閉じ込めて、もう忘れてしまってきているけれども、ありがとうの気持ち、支えてくれた人がいた、ということは忘れてはいけない。

 

そしてシンプルな食べ物でも心がこもっていることはよく分かるし、そうやって作られた食べ物に救われることは往々にしてあるのだ。しんどくなった時は食事を抜いてしまうことも多いけれども、しっかりと食事を作ってきちんと食べて、心を満たしていきたい。よし、今日はちゃんとしたご飯を作ろう。(笑)

 

彼女の料理がきっとまた今日も誰かの心に響いてることだろう。

 

本日も読んでくださりありがとうございました。

当たり前は誰かが作ってきた。これからはわたしたちがつくる。

「当たり前でしょ」

「普通はこうだよね」

シチュエーションにもよるが、この言葉になんとなく違和感をおぼえている。

 

この世の中にはたくさんの当たり前だったり普通とされていることがあって、それら1つひとつに何かを言いたいわけではない。しかしそもそも当たり前や普通というものは、今までのベター、ベストなものを多くの人が選んだ、そういうことで出来ているのではないだろうか。ではその時のベターやベストなことが、いまもベターやベストなのか?多数決は便利かもしれないけれども全部が全部正しいわけではない。

 

そう思うと誰かは当たり前をつくる先駆者になっていくし、それはまず当たり前とは呼ばれないところからはじまる。それならばこれからわたしたちが「こちらが当たり前でーす」となるかもしれないもの、を作っていけばいいじゃないか。それが当たり前になる、ならないとかは関係なく、今普通、普通じゃないとかじゃなくて、わたしたちがやりたいことをやりたいように信念をもっていけば良いと思うのだ。当たり前だとか、普通だとかそういう概念が壊れていけばいいと思いながら。

 

 

本日も読んでくださりありがとうございました。

 

1つの記事で自分を伝えることは困難だ。

わたしは自分の考えを発信したいと思ってこのブログを書いている。ただ1つの記事に詰め込める自分の文章の量なんてたかがしれてるし、長々と書いたってきちんと伝わることもないだろう。そうだ、きっと1記事で誰かに何かを伝えきるっていうのは難しいのではないか。1記事に思いは込めるけど、全部が全部届くなんて、全部を全部伝えられるなんておこがましいことを思うことはやめた。すこし、すこし悩んでいたのだけれども。

 

アーティストだって1曲ではなくて何曲も曲を作ってそのたびに思いを込めて叫んでるじゃないか。

 

1つのことで伝わることもあるけど、伝わらなかったら他の記事も読んで併せて伝わってほしいと願いを込めて。わたしの芯が伝わりますようにと心を込めて。そして変わることと変わらないことの素晴らしさに気づけたことも伝わりますように。

 

本日も読んでくださりありがとうございました。

バイブル本は何?と聞かれたときに答えた。「自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと」/四角大輔

影響を受けた本はいくつか頭に浮かんだ。

その中でもこれは影響をうけたなあと強く思う本がある。それが四角大輔さんの「自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと」

 

わたしがこの本に出会ったのは2年前。衝撃だったのはいまの自分にはほとんどない概念がのっていたこと。わたしにとっての当たり前はほんとうに狭いのだと認識した瞬間だった。今では納得できることも多いし実践してることも多い。そして実践して成功(というかうまくいくというか)していくと納得できて「なるほど」と思うことが出来る。「なるほど」が増えていくと「あ、やっぱりそうよね」と思うことも増えてそれは確信へとつながっていく。

 

捨てるべきこと、と銘打っているように捨てよう、と四角さんが思っていることが50個載っている。そのなかでもわたしに突き刺さった言葉を紹介していく。

多数決依存を捨てる。

(中略)

ただ気を使うだけでは意味はない。新しいプロジェクトにつて、話し合いで、場にいる全員の希望を少しずつ採用していったらどうなるだろうか?

きっとみんなのニーズに合った昨日は一通り揃うだろう。しかし結果としてものすごくコストがかかってしまったり、とりたててすごいところがなに一つない、誰にも喜ばれない製品が生まれたりするだろう。

40 遠慮を捨てる。

(中略)

「みなさんのやり方を尊重します」と言えば聞こえがいいかもしれない。相手の気分が良くなることを言い続けることも簡単だ。しかし、まわりの意見に同調してばかりいたら、仕事はいつまでたっても自分のものとならない。

(中略)

どんなにつたない表現でもかまわない。真剣なら声をあげろ。

 

上記のことが心に刺さったということは、わたしが気にしていたことで「はっ」とさせられたということだ。そうだ、わたしは周りの人と協調するということに気をつけていた。そしてそれとともに過剰に意識しすぎていたことに気がつく。

 

全員に好かれるということは、いいことでもあるが裏返してみると誰の心にも響かない人かもしれない。そしてそれは本当にわたしが求めていたことなのか。何をするにおいても人を優先させてきたことがあるけれども、それは自分のエゴのためであるし、加えて自分のためになっていたのかといえば、クエスチョンマークをつけざるを得ない。

 

誰かに依存するのではなく、わたしの道はわたしが決める。

ここ2年で今までのわたしの中の当たり前は崩され、新しい世界があることを知り、新しい価値観を受け入れそれが自分の価値観になってきた。

 

そのスタートはこの本かもしれない。まわりを気にしすぎず、自分を信じて自分で決めて自分の人生を歩んでいく。そのようなフレーズは多くの歌や多くの本にあるだろう。でもわたしはこの本で四角さんの言葉で心にすとんと理解できたことがある。何に出会うかわからないこの広い世界で、この本に出会えてよかったと思う。

 

まだ読んでない方はぜひ手に取って読んでみてください。

本日も読んでくださりありがとうございました。

雑談するにも情報は必要。だから学ぶことって大切だよね。

物忘れが激しいわたし

わたしは物忘れが激しい。3日前の夕食思い出せる?とかそんなありきたりのことではないのだ。昨日あったことでも、今日の午前中のことだとしても、ん?そんなことあったっけ?これ今日のことだっけ?と記憶が交錯する時がある。

 

わたしも元々こんなに記憶力が悪かったわけではない。学生時代はそこまで勉強も苦にならなかったし、顔や名前憶えも良かった。ただ嫌なことを忘れよう、ということで忘れることに努めていたらいつの間にか大切なことまで忘れるようになってしまったようだ。しょうがないね、これは。

 

忘れることはいいことでもあるけれども、不自由さを感じるときも多い。

ネガティブなことを早く忘れられるようになったけれども、その分他のことも忘れるようになってしまったわたしであるが、雑談をしているときにもどかしい思いを何度もするようになった。あれを話したいのに、あれが出てこない。具体的な名称を出せないからふわっとした感覚で物を言ってしまい、何も伝わらない。そして何より話を膨らましていくときには情報が必要だ。これとあれとそれと、いくつも関連することは思いつくのに、「いつのことだっけ」「どんなことだっけ」と細かいところが曖昧になってしまうと、全体がぼやけてしまう。

 

定量の情報をもっていないと話の幅は広がらない。

話したいこと、伝えたいことはあるのに、曖昧だと相手の反応は「ふーん」と微妙なものになってしまう。わたしだって、興味をもったもので「え、詳しく教えてよ」と言ったときに相手がざっくりとした雰囲気だけを伝えてきたらがっかりする。だから、雑談する時にも情報≒知識が必要なのだ。

 

とりあえず、わたしは情報メモを作ろうと思う。すぐ忘れてしまうからキーワードだけでもメモしておきたい。

 

だれかにちやほやされたいとかじゃない。

ある程度の情報は必要なのだから、常に学ぶ姿勢は大切だ。雑談は人とのコミュニケーションであるし必要不可欠なことだ。相手も自分も幸せになるその瞬間にするために、わたしは物忘れが激しいことを克服していきたい。今までは忘れっぽくて知識がどんどんなくなってったって今はGoogle様があるから大丈夫、知りたいときにぐぐればOKなんて気楽に考えていたけれども、なんか違うと心の隅っこにひっかかるものがあった。

それがこの雑談時のことと最近気が付いた。自分、そして話している相手のために情報、知識を増やして楽しい場を作れたらいいなと心から思っている。

 

 

本日も読んでくださりありがとうございました。

読書記録◎アイネクライネナハトムジーク/伊坂幸太郎【ネタバレアリ】

アイネクライネナハトムジーク

僕の書く話にしては珍しく、泥棒や強盗、殺し屋や超能力、恐ろしい犯人、特徴的な人物や奇妙な設定、そういったものがほとんど出てこない本になりました。(本書あとがきより)

この本は短編小説だ。そして本人が書いているように、伊坂さんにしては珍しく殺人もおきないし、盗人も出てこない。(わたしはそれも大好きだけどね。)至って普通?な日常生活をきりとっている小説である。そもそも斉藤和義さんから歌詞を書いてくださいとオファーがきたところからこの小説が生み出されていき、結果として恋愛要素の強くなったらしい。

 

そんないくつもの日常がつまっている中でわたしはライトヘビーと名付けられた章が好きだ。美容師の「わたし」とお客の香澄さん。ひょんなことから香澄さんの弟、学くんと「わたし」は電話をすることになって、会ったこともないのに電話をする仲という奇妙な関係が続いていく話だ。顔も知らない相手。でも定期的に電話はしていて、話も弾んで。ただ1つ不思議なのは学くんの仕事が忙しくなる時期は全く電話がかかってこなくなること。学くんが本当に事務職についているのか分からないのだけれども、きっと「事務職」ではないのだろうなあと見当をつける。

 

香澄さんも学くんの仕事の話はあんまりしないんだけど、いたずら心がわいてTVの中継を「わたし」に見せてしまう。香澄さんがいたずらっ子なんだろうなと思う描写がはしばしにちりばめられていたから、すんなりと「そうするよね」と受け止めた。

 

そう、この章は「わたし」と学くんの恋の始まり、恋の軌跡を描いている。誰かの恋のはじまりをこそっとのぞいて、好きなのかもと気づくその瞬間に立ちあうというのがなんだか良いと思うのだ。結局お互いを大切に思っている関係は素敵だと思いをはせることの出来るこの話が好きだ。びっくりする展開だしね。

 

 

お互いに知らぬところで少しずつ関わっている登場人物たちは、言わば「世界は広いが世間は狭い」を地でいく人々だった。『ウォーリーを探せ』のようによく注意して読んでいないと彼らはすっと通り過ぎていってしまう。

 

ひとつの短編として読んでも面白いし、全部通して読めば、全部を読み切ったときに理解できる人と人の絡みににやりとしてしまうだろう。いやしかし人と人との絡みを書くのが本当にうまい方だなあ。

 

どの短編も出てくる人の全部の人生を描いているわけではない。だけれどもその余白でわたしたちはいろいろと想像できるのだ。わたしはとにかくハッピーエンドが好きだし、幸せであってほしいと思うから幸せなエピソードで余白をうめることが多い。その余白もあわせて楽しんでほしい。わたしの大好きな学くんと美容師の美奈子はだいぶちゃんと最後まで書いてあって嬉しい。

 

本日も読んでくださりありがとうございました。

そして新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

死にたいという闇の中から抜け出したい。

人が死ぬということ生きるということ

わたしたちは自分の意思でこの世に生まれ落ちたわけではない。いつの間にか生まれていて、いつの間にかこの世界で生きていかなければいけなくなった。それを幸ととるか不幸ととるかは人それぞれだが、せっかく生まれたわけなので、なんとか幸せな人生、意味がある人生を生きたいと思うのが人の心というものだと思う。

 

 

自分で死を選ぶということ

そんな人生だけれども生きていれば追いつめられて、この世界から逃げたくなる時もある。わたしも人生で2度本気で死を考えたことがある。このつらさから解放されたい、誰も分かってくれないこの痛みから逃げたい。そう思った。

 

ただ、わたしは天国とか地獄があってこの魂は残ると思っているから、死んでも楽にはならないと思っている。だから本当に辛かった。死んだとしてもこの苦しみから逃れられないのだから、なんとかしてこの苦しみと共存していくしかないのか、と毎日もだえ苦しんだ。

 

その時に気が付いたことは誰にもわたしの苦しみ、痛みは分かってもらえない、孤独だということだった。

 

1人では闇から抜け出せなかった。支えてくれた人。

死にたいともだえ苦しんでいた時、なんとかこの苦しみから今抜け出さなければ、抜け出したいと思って過ごしていた。しかし寝ても起きても苦しくて、どうしようもなくて、頭がおかしくなりそうだった。

 

必ず抜け出せる、そう支えてくれたのは親だった。必ず抜けだせる、でもそれは自分自身でなければならないんだよ、いつでもここにいるからね、その苦しみはいつまでも続かない、時間はかかるかもしれないけど、必ず抜け出せるからね。ずっとそういうことばをかけてくれた。抜け出せるなんて思えなかったけど、大好きな親だから、信頼している人だからそこだけを信じて毎日生きていた。結果どうなったかって?少し時間はかかったけれども、わたしはいまこうして幸せに生きている。

 

そしてわたしには大切な大切な友人がいる。話を聞いてくれて、大丈夫よー三富なら抜け出せるよーとおおらかに受け止めてくれた。何やってるのよなんて一言も言わないで、ラインで雑談をしてくれた。わたしがアクションをおこしたら、助けを求めたらいつでもそこにいて手を差し伸べてくれた。

 

この人たちを思いっきり頼って支柱にして自分を立て直していけた。

 

自分が孤独であることも自分でしか抜け出せないことも分かった。

わたしはそれまであまり孤独を感じたことはなかったけれども、この経験で本当に孤独を感じた。そして自分で責任をもって生きていくということが身にしみてわかった。

 

その中でも、その中でも、支えてくれる人がいて必ず抜け出すという決意をもてば、そこから抜け出すことは出来るのだ。今闇の中にいる人には信じられないかもしれない。自分でしかその闇を切り開いて抜け出すことは出来ないけれども、自分でその闇から抜け出すことが出来るのだ。もちろん1人では無理なこともあるから、周りの人に助けを求めたらいい。たった1人で生きているわけではないのだから。それは親でなくても友人でなくてもいい。全然知らない人でもいい。なんとか、なんとか自分が崩れないように支えてくれる人を見つけてほしい。

 

抜け出せる。そこから、必ず。

結果論だと言われればそれまでだ。でももう一度自分を信じて踏みとどまってほしい。自ら死を選ばないでほしい。これはわたしのエゴなのかもしれない。しかしあなたにはわたしと同じように希望的な未来が広がっている。それにその未来を選ぶことが出来るのだ。

 

人には言えないような苦しみを経験したら、その分人にやさしくなるし、人の気持ちが分かるようになる。それは自分の人生を幸せに生きていく糧になることは間違いない。これも全部全部後からわかったことだけど。そして今辛い人には信じられないことだろう。結果論と言われればそれまでだし、理想論であることは分かってる。でも一歩先に抜け出せたものとして言わせてほしい。

 

なんだかわからないけど、もがいていたらすっと抜け出したのだ。なんで抜け出したのかも、なんで闇に落ちていたのかももうもはやわからない。でもこういう経験をした人はきっとみんなそうだ。すっとぬけるのだ。

 

苦しみ、がいつまでも続くと思わないでほしい。未来、が苦しみの中で終わると思わないでほしい。苦しいことから逃げ出すのは問題ないけれども、死という選択肢を自ら選ばないでほしい。

 

どうぞあなたが闇のなかから抜け出せますように。

わたしだけではなくあなたも幸せになれますように。

 

 

本日も読んでくださりありがとうございました。