僕らは奇跡でできている6話の三富的感想~虹一くん回は泣いてしまう。~

どうも、三富です。僕らは奇跡でできている、第6話を見てぼろぼろに泣きつくして瞼がはれて目がかすんでおりますが、この勢いのまま感じたことを書きたいと思って、PCを開いています。

 

第6話。虹一くんメインの回でした。僕キセは基本的に毎回「良きかな」と思いながら見ておりますが、虹一くんが出てる回はどうしても泣いてしまいます。(2回目だけど。)涙の量も尋常じゃない。うるっ、とかではなく、だーという感じです。(伝われ。)

 

さて今回も前回と同様、虹一くんがみんなと同じように出来ないことに責任を感じているお母さんと、勉強がしたくない訳じゃないのだけどなんでか頭が痛くなってしまう虹一くんが出てきます。ある日虹一くんはお腹が痛いと嘘をついて学校を休み、こっそり家の窓から抜け出して相河先生の家にまで行ってしまいます。

 

どうしても相河先生と虹一くんを一緒に居させたくないお母さん。虹一くんが勉強ができないから仮病をつかって逃げていると、そして虹一くんがほかの子と違っていることを悪目立ちしている、と捉えています。お母さんにとって相河先生は、その「悪目立ち」を褒める意味の分からない人です。お母さんからすれば、大事な虹一くんには勉強が人並みには出来てほしいし、なにより頭が痛いなどと言って勉強から逃げるようなことをしてほしくないのです。

 

でも本当に虹一くんは勉強が嫌いだから頭が痛いと言っているのでしょうか。

本当に虹一くんは勉強から逃げ出しているのでしょうか。

 

そしてお母さんは、勉強以外の虹一くんの良さをなぜ見ないのでしょうか。

見れていないのでしょうか。

もし勉強が出来ていたら、絵を描くということは虹一くんの良さだとお母さんは認めてあげられたのでしょうか。

 

わたしはずーっと相河先生によってお母さんの心がほどけてほしい、と願っていました。わたしも学生時代にこのドラマを見ていたらきっと、虹一くんのお母さんと同じ考え方をしていたと思います。ただ今は違います。今は相河先生側から見れます。

そのためには、そういう考え方がある、ということを知って受け入れたり、納得できないといけません。だってそれはそもそも「わたし」の中になかったり、隠れていたりする考えなのですから。

 

お母さんはとっても虹一くんのことが大切なのだと思います。ただお母さんの中での「こうあってほしい」という願いに沿っていたら正解、そうでなければ不正解、というのがあまりにも透けて見えてしまいました。もちろん子どものことを思っていることはひしひしと感じます。とてつもなくわかります。伝わってきます。それを否定はしません。わたしはこのお母さんのことを否定しているわけではないんです。

 

どんな「わたし」でも受け入れてほしい、と願うのは子どものエゴ、なのでしょうか。

 

幼い相河先生全部を受け入れてくれたのが、おじいちゃんでした。

その相河先生を広い世界に導いてくれて、陰で支えてくれていたのが先生でした。

 

安心できる場所があるということは、それを拠り所になんでも挑戦できる、ということに繋がります。だからこそ相河先生はありのままの自分を受け入れることができるようになったし、そして相手のことも受け入れられることができるようになったし、挑戦し続けている今を生きています。

 

お母さんは相河先生の話をきいて「ああ。虹一のあれは『悪目立ち』ではなかったんだ。」と気づき、虹一くんにごめんね、だめなお母さんで、と謝ります。虹一くんは「そんなことないよ、お母さんのすごいところ100個言えるよ。」と伝えます。お母さんは虹一くんのことを泣きながらぎゅーっと抱きしめます。

 

わたしはそこで「ああ。虹一くんとお母さんは、過去の相河先生とおじいちゃんのような関係になったのだ。」と思いました。そしてお母さんの心がほどけてよかった、とも思いました。自分のことも責めていたし、大好きな虹一くんのことも誤解して責めていたし。ただそれは自分の今までの価値観の中でしか見てなかったからでした。そのブロックを外すと今までは見えていなかったものが見えてきたのです。

 

わたしは今の虹一くんとお母さんの関係だったりあり方だったりのほうがHAPPYだと感じます。

 

ダチョウは飛べないのか、それとも飛ばないのか。

 

お母さんの気持ちも、虹一くんの気持ちもひしひしと伝わってきて、どうしたらいいんだろう、となっていたところに相河先生が入ってきました。相河先生はいい意味で場をかき乱します。かき回します。そして化学反応を起こさせます。わたしたちの中にある考えがどんどんどんどん変わってきます。そうやって世界が優しくなっていきます。

 

お母さんは、自分で見えない敵を作っていた、とぽつりといいました。

 

「誰か」に非常識と思われそうだから、「誰か」におかしいと思われるから、「誰か」とは違うから。そうやってわたしたちは自分で自分を縛り付け、自らを優しくない世界に追い込みます。

 

もっと世界は優しいし、わたしたちは生きやすいはずです。

 

幼い相河先生が感じていた「生きづらさ」は1段階目として理科クラブ、で少し解消されたし、その次におじいちゃんによってなくなりました。いや、完全になくなったわけではないけれども、その「生きづらさ」と戦ったり無視したり、自分が生きやすいように生きられるようになったのだと思います。おじいちゃんという絶対的な安心感を得たからです。

 

なんだか書きなぐってしまいましたが、わたしの言いたいことは伝わったでしょうか。

 

これ、たぶん学生の頃に見ていたらまた違った感想をもったと思います。

 

「生きづらさ」を感じているすべての人に。

優しい世界が届きますように。

そしてその世界が広がっていきますように。

 

お母さんの気持ちも、虹一くんの気持ちも、相河先生の気持ちも、そして水本先生の気持ちも、全部どっかしら自分が感じたことがあって、そして経験があって、どうしたらいいかなともがいているときもあって。そういった全部をひっくるめての今ですし、わたしにも拠り所があるからこそ挑戦できるし今があるなとしみじみ感じたわけです。

 

だからこのドラマをみながらお母さんの葛藤する思い、悩む気持ちに寄り添い、虹一くんの、お母さんが好きなのに分かってもらえないところがあってどうすればいいかわからないもどかしい気持ちにも入り込んでしまい...というわけで涙がとまらなかったわけです。また教育現場においての「生きづらさ」やひとりひとりの個性を生かしていきたい、とか考え始めたら止まらない訳です。そういうことを考えるとまた、色々と悔しくて涙が出てきてしまいました。総じて多くのことを考えたってわけですね。こういったことに関してはもう少し深く落とし込んで整理したいと感じています。まだまだ学ばないといけないこともたくさんありますしね。また考えるいいきっかけになったと思います。

 

本日も読んでくださりありがとうございました。