自分の好きに囲まれることの強さ

嫌いという思いには力がいる。

何かを嫌い、と思ってしまうことは当たり前。自分が世の中の全員に好かれるわけでもないし、自分が全員を好きになることはないのである。人それぞれ個人差はあると思うが、その嫌い、という思いを持つほうも、その嫌だという思いに触れたほうも、とてつもない労力を使ってしまうことも事実である。負の思いには負の力がある。それが積み重なるとしんどくなってしまうことが多い。

 

だからそもそも、嫌いを見ない。

そういった負の思いには、自分から近づかない方がいいし、近づかないという選択肢をとれる、ということに気が付いてからは、自分が嫌いと思うもの、自分を嫌いだと思っているものからは距離をおくようになった。世間的に見れば「逃げ」ということになるのかもしれない。それでもいい。嫌いという負の思いに押しつぶされてしまうくらいなら、そこから逃げることが正しくなくともベストなのだ。好きに囲まれていれば、安心であるし、安心は新しいことへの挑戦を誘う。

 

嫌いに立ち向かうことも出来る。

自分の中に余裕があれば、なにか強い思いがあれば、その嫌いという思いに立ち向かうことも出来る。それはその時々でその人が選択すればいい。自分のことは自分が一番よく分かっている。立ち向かいたい、克服したい、そう思うなら立ち向かって克服したらいい。それを人に押し付けることはしたくないし、してほしくないと思うけれども。

 

選択することで出てくる思い。

負の思いに立ち向かう、そう考えるとあとから「もしかしたらあの時」なんて思うこともあるかもしれない。「もしかしたらあの時戦えていたかもしれない」そんな思いにとらわれるときもあるだろう。これだけは言いたい。「もし」はないし、その時のベストは尽くしている。だから「もし」はこれからの選択の参考にするくらいでいいだろう。後悔なんてそんなもんだ。人生は選択することの連続。一発で成功だけを選び続けることは困難だし、それだけで生きているのならばラッキーだ。ただ、ひとつ言えることは、失敗と思われることを選んだとしたら、成功したときには得られなかったものを手に入れることが出来るということだ。ではそもそもそれは失敗なのか?「わたしは今までに1度も失敗をしたことがない。電球が光らないという発見を今まで2万回したのだ。それは失敗じゃなくて、その方法ではうまくいかないことがわかったんだから成功なんだよ(トーマス・エジソン)」

 

好きに囲まれていたい。

ここ2、3年で思うことは、わたしはやっぱり好きに囲まれて安心して生きていきたい。そうやっていくことで少しずつ嫌いだったり負の思いに太刀打ちすることが出来ると知ったからだ。好きに囲まれることで安心を得て、安心する居場所があれば戦える強さに変わっていく、という話である。その1つに音楽があるから今度はその話をしたいと思う。

 

 

本日も読んでくださりありがとうございました。